さよならテリー・ザ・キッド

おとなをからかっちゃいけないよ

森田まさのり『べしゃり暮らし』

週刊少年ジャンプ森田まさのりべしゃり暮らし』が新連載スタート。ヤングジャンプ『柴犬』、本誌『スベルヲイトワズ』と、お笑い芸人ものの読み切りを2作続け、さらにこの新連載もお笑いだからよっぽど書きたかったジャンルなんだろう。実際、ありそうであまりない題材なので興味深い。
お笑い漫画なのだから、主人公は当然「面白い人」として描かれ、笑いを取りまくっている。けど、どうも作中でゲラゲラ笑っている連中と、読んでる僕自身に温度差がある気がする。はっきり言うと、読んでて「寒い」のだ。これはおかしい。森田先生はシリアスな漫画の中にたまに挟むギャグのセンスはかなりのものだったはずだ。
まずお笑い芸人ものの宿命として、「お笑い」部分が面白くないとダメ、という大前提がある。例えば「ライブで漫才・コントをやって、それが客に受けたことで成功に繋がる」という場面を描く場合、肝心のネタが面白くないのに客だけ受けてても説得力がない。しかし、これは森田先生なら「面白い」ことをきちんと描けると思う。実際、「べしゃり暮らし」の作中でもつまらないことは言ってない、と僕は思う。
なのにつまらなく見えるのはなぜか?それはこの漫画が「ギャグ漫画」ではなく「お笑い漫画」だからではないだろうか。
ギャグ漫画のギャグ担当のキャラは、いくら面白いことを言っても基本的に「面白い人」という扱いは受けない。単に「頭のおかしい人」として描かれ、怒られたり蔑まれたりする(=つっこまれる)だけである。「ギャグ担当=笑いの取れるやつ」という認識はないはずだ。あくまで作中で笑う人はおらず、笑うのは基本的に読者だけだ。
しかし「お笑い漫画」となるとそうはいかない。話の特性上、漫画内の世界でも面白い人という認識であることを表す為には、まわりの人が笑わなければいけないのだ。しかし、この「作中での笑い」のせいで、作中で面白いことを言ってるキャラがお寒く見えてしまっているのだ。他の漫画で想像してみて欲しい。ジャガーさんボーボボが珍奇な行動や発言をした際に、ピヨ彦やビュティが一切つっこまず、単に笑い転げるだけだとしたら?…おそらくどんなオモロな場面でも、読み手は
「笑ってるってことは作者自身が『今のは面白い』『笑うとこだよ』って言ってるようなもんじゃねえか」
「面白いかどうかはこっちが決めるよ…」
という心理が働き、つまらなく思えるのではないだろうか。くりかえすが、どんなオモロな場面でも、だ。
同じ森田先生でも「ろくでなしブルース」等では何度も笑わされてきたので、先生のギャグセンス自体は問題ないはずなのだ。だからこの違和感の正体は「笑い役」がいるかいないか、であろう。
要するに「お笑い漫画」は極めて難しいジャンルということだ。まあ、これから優秀なつっこみ役が登場すれば変わるかもしれないし、描きたいことはギャグそのものではなく、芸人の生き様や、ネタの作り方や、客との心理戦等、舞台裏なのだろう。「BECK」だってバンド漫画なのに詞は書いてないし、漫画だから当然メロディは伝わってこない。しかし「BECK」はそれを逆手に取り、肝心の音楽部分は客席のリアクションと演出のみで乗り切っている。同じ「舞台裏もの」でも、なまじっか台詞だけでそれなりにネタが描けてしまうのが音楽ものと違って辛いところか。
結局ウケてるかどうかは客のリアクションを描くしかないというのであれば、例えば「ネタの完成度は良い(台詞では面白いことを言っている)んだけど、間がコンマ数秒ズレて客席の反応はイマイチ」なんて舞台では良くある場面、それは漫画だとどう描かれるのか…なんてことを個人的には期待している。